大阪いじめ動画問題
首を絞め、海に落とす――それでも「削除」で終わらせるのか
――一体、誰を守っているのか
大阪で起きたいじめ動画が拡散された。
中学生の加害者が、小学生の被害者の首を絞め、海に落とす。
笑いながら、撮影されている。
これが「遊び」や「悪ふざけ」で済む話だろうか。
そして、この動画に対して
こども家庭庁は「動画の削除」を要請した。
その判断を聞いた瞬間、
強い怒りが込み上げた。
■ 削除で守られるのは、誰なのか
「二次被害を防ぐため」
「子どもの将来を守るため」
理由はいくらでも用意できる。
だが、はっきり言いたい。
削除で守られるのは、被害者ではない。
・被害者の恐怖は消えない
・被害者の記憶は消えない
・被害者の心身の傷は残り続ける
消えるのは、
加害の証拠と、社会の視線だけだ。
■ 被害者は「最初から存在しなかった」扱いになる
動画が消えれば、こうなる。
・事件は見えなくなる
・怒りは拡散しなくなる
・問題は風化する
そして最終的に、
被害者は「なかったこと」にされる。
これが一番残酷だ。
被害者は今も生きている。
怖さも、屈辱も、無力感も、体に残っている。
それなのに社会は、
「見えない場所」に押し戻す。
■ 「子どもを守る」という言葉の欺瞞
こども家庭庁は、
「子どもを守る」ための組織だ。
だが今回、守ろうとしているのは何だろう。
・加害者の将来
・学校や地域の体面
・行政の責任問題
少なくとも、
被害者の尊厳は最優先されていない。
本当に子どもを守るなら、
・なぜ起きたのか
・なぜ止められなかったのか
・どう再発を防ぐのか
ここまで社会に見せなければ意味がない。
■ 「拡散=悪」ではない
もちろん、無責任な晒しや誹謗中傷は論外だ。
それは新たな暴力になる。
だが、
事実そのものを消すことが正義になる瞬間はない。
映像があるからこそ、
「これはいじめではなく暴力だ」
「大人が介入すべきだ」
そう声が上がった。
可視化されたから、
社会はやっと向き合い始めた。
それを、
「不都合だから消す」という判断で終わらせていいのか。
■ 本当に必要なのは「削除」ではない
必要なのは、
・加害行為の明確な線引き
・被害者のケアと保護
・学校と大人の責任の明確化
・再発防止策の公開
そして何より、
被害者が「社会は自分の味方だ」と感じられることだ。
動画を消すだけで、
それは達成されるのか。
■ この怒りは、正当だと思っている
これは感情論ではない。
首を絞め、海に落とす。
それを笑って撮影する。
この現実を前にして、
怒りが湧かない方がおかしい。
そしてその怒りは、
被害者の存在を消させないために使われるべきだ。
■ 見なかったことにした社会は、また同じことを繰り返す
動画を消せば、事件は終わる。
そう思っているなら、
それは間違いだ。
見なかったことにした社会は、必ず同じことを繰り返す。
今回、問われているのは
「動画を消すべきか」ではない。
誰のために、何を守るのか。
その答えを間違え続ける限り、
同じ被害者は、また生まれる。